菅原騎手

「亡き恩師への感謝を胸に」幼少期の夢を叶えた宮城県出身の若き騎手が描く未来

2025.01.24

北海道遺産に指定されている『北海道の馬文化』には、明治初期の開拓時代から労働力として活躍してきた“ばん馬”の歴史が含まれています。現代でも、ばん馬と関わる人々は厩舎の近くに住み、共に生活を続けており、人と馬の深い信頼関係が築かれています。

今回お話を伺ったのは、ばんえい競馬騎手の菅原響希さん。2024年より新人騎手としてスタートを切った菅原さんに、ばんえい競馬の騎手になるまでの道のりや、これからの目標について語っていただきました。

菅原 響希(すがわら ひびき)
2002年生、宮城県大崎市出身。村上慎一厩舎所属。
高校卒業と同時に帯広市へ移住し、ばんえい競馬の厩務員となる。
地方競馬全国協会における『令和6年度 騎手免許試験』に合格し、2024年12月1日騎手免許交付。
騎手服は白、赤星散、黒袖赤縦縞。ばんえい競馬の未来を担う期待の新人騎手の一人である。趣味はカメラ。

快挙!競馬ファン一家から騎手誕生

まずは2024年12月16日(月)第10レースサクラダイヤモンド号での初勝利おめでとうございます!

ありがとうございます。実はゴールに入った瞬間、自分が勝ったのかわからなかったのですが、レースを観ていたお客さんが何度も大きな声で「響希勝ったぞ!」と声をかけてくださったので、そこで初めて優勝を知りました。

予想していた以上に喜びと感動がこみ上げてきて、思わず涙が出そうになりました。騎乗馬であるサクラダイヤモンドには、何度も「ありがとう」と声をかけましたね。

菅原騎手が騎手になりたいと思ったきっかけは?

我が家は家族で競馬を観ることが好きで、実家の宮城県から近い『岩手競馬』やJRAの『福島競馬場』へ訪れるたびに、騎手の格好良さに惹かれ「自分も騎手になりたい」と思っていました。

ただ、サラブレッド競馬の騎手学校の入学条件は体重制限が厳しいため、体が大きい自分には難しいと思っており、「将来は競馬に関する仕事ができたらいいな」と漠然と考えていました。

ばんえい競馬の騎手はどうやって目指すことになったのでしょうか。

高校3年生だった2020年、ばんえい競馬のライブ中継を見たんです。そのレースは、前年に騎手デビューされた林康文騎手がスーパースピード号に騎乗し勝利したのですが、林騎手の騎乗スタイルの格好良さに衝撃を受けてから夢中でばんえい競馬のレース中継を見るようになりました。

そんな時に兄がばんえい競馬の求人を見つけてくれて、ばんえい競馬の騎手は身長制限がなく、自分の体格でもなれるということがわかりました。そして騎手を目指すことを決意し、まずは 2泊3日でばんえい競馬の厩舎作業の体験をさせてもらいました。

そして高校卒業後、大河原和雄調教師の厩舎で厩務員になりました。大学受験の準備をしていたので、周りは驚いていたと思います。

あくまでも“騎手になること”にこだわったのはなぜでしょうか?

競馬場で騎手が一生懸命に馬と息を合わせて頑張っている姿にいつも勇気や希望を与えてもらっていたので、騎手への憧れが人一倍強くありました。自分も騎手になって観ている人たちに喜んでもらいたいし、競馬の世界に恩返しをしたいとも思っていました。

馬に支えられ乗り越えた厩務員時代

ばんえい競馬の厩務員となった当初の思い出は?

間近で見るばん馬は「少し怖い」と感じるくらいの迫力があり、始めの頃は全く思った通りに馬を動かすことができず常に苦労していました。しかし、初めてそりに乗った時は、遊園地のアトラクションに乗っているようなわくわくする感覚があって「このそりに毎日乗ることができるんだ!」と心が躍りました。

先生や厩務員の先輩たちがたくさんアドバイスしてくれたことが理解できるようになり、馬とコンタクトが取れるようになった時は嬉しかったですし、克服できたことは自信につながったと思います。

一方で、住み慣れた宮城県を離れ、帯広市に移住した当初はホームシックになっていた時期もありました。しかし、たくさんの馬たちがそばにいてくれたから乗り切ることができたと感じています。馬たちが住む馬房がある建物の2階に人間用の住居があるので、常に聞こえてくる馬の足音や、生活音が聞こえるたびに「馬たちと共に頑張ろう」と励まされていました。

憧れの林康文騎手とはどんなお話をされましたか。

2021年に厩務員となって間もない頃、新人厩務員として取材を受けた時に私が話した、「林康文騎手に憧れてこの世界に入った」という記事を林騎手が読んでくださって「嬉しかったよ」と声を掛けてくださったんです。それから毎日のように林騎手と話ができるようになったので、すごく嬉しかったです。

厩務員として忙しく過ごす中でどのように騎手試験の勉強をしましたか?

ばんえい競馬では厩務員としての実務経験があれば、その年の騎手試験を受けられるようになりますが、自分はもう少し経験を積んでから挑戦したいと思い、3年目の時に初めて受験しました。そして、今年2回目となる試験で合格することができました。

騎手試験は筆記と実技があります。筆記試験の勉強は独学で勉強していたのですが、ばんえい競馬をはじめ地方競馬の騎手や調教師免許を交付する地方競馬全国協会で開かれる10日間の勉強会にも参加させていただきました。その勉強会での環境は一番影響が大きかったと思っています。1回目の失敗を活かして、今年はしっかり時間をとって勉強することができました。

デビュー戦で初めてレースに騎乗した日のことをお聞かせください。

勝利を目指しながら馬を真っ直ぐに進めていくことや、騎手同士の駆け引きなどたくさんのことを同時に行うのは大変なことだと感じました。そして、隣のコースに馬がいることが初めてだったので、蛇行などをして他の馬に迷惑がかからないようにすること、それが一番緊張したところです。

デビュー戦では両隣が鈴木恵介騎手、阿部武臣騎手と名騎手の間でのレースでしたね。

夢のような光景だと思いましたし、改めて身の引き締まる思いでした。レース直前のゲート裏では、鈴木恵介騎手が「騎手服が山本正彦先生とそっくりだね」など緊張をほぐしてくれるようなことを話しかけてくださいました。

恩師の遺志を継ぐ決意

騎手服に込めた思いについてお聞かせください。

袖の赤黒の縦縞(たてじま)の直線は、ばんえい競馬の魅力は“第二障害をばん馬が渾身の力を込めて登っていく姿”だと思っていて、馬が上に向かっていく時に手綱を持つ腕が同じ方向を示している姿が格好良いのではと思い、選んびました。

胴は、昨年他界された山本正彦元調教師の騎手服と同じにさせていただきました。私は現在、村上慎一調教師の厩舎に所属していますが、2年前は故山本正彦調教師の厩舎に所属をしていたんです。

山本先生はとても温かく面白い人で、お父さんのように慕っていました。技術はもちろんのこと、騎手としてのありかたや立ち振る舞いについても教えてくださいました。山本先生に騎手としての姿を見てもらうことは叶いませんでしたが、遺志を継いでいきたいと思っています。

ご家族は観戦に来てくださいましたか?

帯広競馬場にたびたび観に来てくれています。デビュー日は両親が本当に喜んでくれて、父がカメラでたくさん写真を撮ってくれました。初勝利を挙げた日は、開催終了後に電話で喜びを分かちあいました。

帯広市に移住してまもなく5年目になりますね。街の魅力はどんなところですか。

「帯広は何でも揃う街」という印象です。特に、帯広名物『インデアンカレー』が好きです。競馬開催の無い日はいつでも食べることができるので、それだけでも帯広に来て良かったです(笑)。また十勝川温泉もたくさん施設があり、時間が空いた時に仲間とよく行っています。

2025年の抱負をお聞かせください。

まずは50勝を目指せるように。騎手としての技術を磨いて少しでも先輩騎手の背中に追いつけるように頑張ります。

技術が未熟でふがいない結果ばかりですが、それでも応援してくださるファンの皆さまには心から感謝しています。少しでも早く上達してばんえい競馬の一員として盛り上げていきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします!

読者へメッセージをお願いします。

ばんえい競馬で活躍するばん馬は格好良くて、かわいらしい魅力的な馬たちばかりです。ばん馬がレースでたてがみに着ける飾りの多くは厩務員が心を込めて丁寧に手作りをしています。

北海道の魅力のひとつがばんえい競馬だと言ってもらえるようにこれからも頑張っていきます。ぜひ帯広競馬場に遊びに来てください。

ーーー初めての世界に単身飛び込み、たくさんの努力の日々の先に見事騎手となられた菅原さん。質問のひとつひとつに丁寧に言葉を選びお話される姿が印象的でした。
長年低迷していたプロ野球の北海道日本ハムファイターズが、2024年にパ・リーグ2位に大躍進した要因のひとつに“ミレニアム世代の活躍”が挙げられ話題となりました。
ばんえい競馬では2002年生世代から早くも3人が騎手として誕生しています。若い力の活躍が今後の繫栄につながることでしょう。
菅原騎手のこれからの活躍を楽しみに応援しています!

文/Kawahara

連載「ばんえい競馬ではたらく人」では、ばんえい競馬を支える仕事に就くさまざまな人の魅力に迫ります。お仕事と記事の一覧はこちらから。

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