波乱万丈!札幌産ビールに人生を捧げた1人の男
現在の「サッポロファクトリー」はサッポロビール工場跡地であり、開拓使麦酒醸造所をルーツとしていることをご存じでしょうか。日本のビール産業の歴史は、北海道の開拓使にはじまります。
そんなビールの歴史を語るとき、絶対に忘れてはならない1人の男がいます。その名も、村橋久成(むらはし・ひさなり)。村橋は日本人による日本初のビールづくりに大きく貢献しました。今回は村橋とビールの歩みを紹介していきます。
村橋の夢。その実現のために
村橋は、北海道開拓事業が立ち上がった直後に開拓使に入ります。彼の夢は、北海道の農業振興と近代的な産業おこし。ビール醸造は、加工した農産物を製品として全国的に販売する、まさに近代的な産業そのもの。その仕事に村橋は強く惹かれ、没頭していきます。
今では札幌という土地とビールの結びつきは強いですが、開拓使は最初、麦酒醸造所の建設予定地を東京にしていました。試験的に東京で製造を行い、成功のめどがついたら札幌に移すつもりだったのです。しかし村橋は、札幌での麦酒醸造の成功を確信していました。
「札幌には建設用の木材、製造に不可欠な氷や雪が豊富にあり、気候も製造に適している。東京に試験的に醸造所を建設するよりも最初から札幌に建設した方が出費が省ける」と開拓使に主張。
その主張は受け入れられ、のちに村橋が醸造所の建設地を東京から札幌に変更したのは、彼の最大の功績とも言われるようになりました。
ビール製造の勢いがついたさなかの、村橋の突然の決断
明治9年、日本初のビール醸造所が札幌に完成し、明治10年にはビールが売り出されるようになりました。はじめは、ビールは外国人や一部の階層の高級な嗜好品に過ぎず、ほとんどの日本人はビールを飲んだことも見たこともありませんでした。北海道にはそんな高級品を受け入れる市場もなかったため、ほぼすべての製品が東京の市場に回すために送られていったそうです。それにともなって村橋は東京へ転任し、瓶の確保や輸送手段、冷蔵用の氷などの準備に苦心しました。
村橋ら製造者の努力が実り、同年9月にはビールは大々的に売り出されるようになり、次第に人々に知られていきます。それまでは外国産に頼っていた原料の麦やホップも、すべて北海道でまかなえるようになりました。ビール製造が軌道に乗ったのです。
そうした中で、村橋は突然、辞表を提出しました。
村橋の辞職、その後のビール醸造
村橋が辞職を決めたのは、開拓使にスキャンダルが起き、その影響を受けて開拓使が廃止されることになったからでした。彼はその一連のできごとをはじめから知っていたのです。村橋は開拓使の廃止が許せませんでした。
「いまやっと芽吹いたあたらしい産業の芽を、なぜ摘みとり放棄するのか。こころざしは、どこへいってしまったのか。倒幕・維新、そして開拓とあたらしい国づくりにささげられてきた無数の命は、いったいなんだったのか。なんのための開拓使だったのか。」
開拓に心を捧げた村橋は、開拓使のその決断に怒りを覚えました。
そして村橋は開拓使から去り、歴史の舞台から姿を消しました。辞職後は僧のような姿に変わり、各地を行脚したそうです。
しかし村橋がビールの歴史から退いても、ビール工場は消えませんでした。開拓使廃止に伴ってさまざまな開拓使関連の事業所が失われていきました。その中で唯一、現在まで継承されてきたのがビール工場なのです。
儚く消えた村橋と、現在まで確固とした存在を保っているビール工場。ビールを飲むときには村橋の努力を少しだけ思い出してみてください。きっとまた違った味を楽しめるはずです。
【記事参考文献】開拓使麦酒醸造所ものがたり
【画像・参考】サッポロビール株式会社、Babich Alexander / shutterstock
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