異業種から60歳で転身。1トン超のばん馬に向き合う、ばんえい新人獣医師の知られざる仕事 

北海道帯広市で開催されている、世界で唯一の『ばんえい競馬』。体重1トンを超える巨大なばん馬たちが重い鉄のソリを曳き進む迫力あるレースの裏側には、馬たちの命と健康を24時間体制で支える『ばんえい競馬競走馬診療所』が存在します。

2025年12月、この診療所に新しく加わったのが獣医師の鳩野一郎さんです。一般企業の役員からの転身という異例の経歴を持ちながら、馬への情熱と挑戦心を胸に現場へ飛び込んだ新人獣医師に、現場のリアルと仕事にかける想いをお伺いしました。

画像:ばんえい十勝

鳩野一郎(はとの・いちろう)
大阪府出身。大阪府立大学(現・大阪公立大学)獣医学科卒業後、獣医師免許を取得。大学時代は馬術部に所属し馬漬けの生活を送る。卒業後は製薬会社に入社し、医療系企業数社において新薬開発や経営に携わる傍ら、俳優としても活動。60歳を前に役員を退任後、「やりたいと思った時が一番若い」をモットーに、2025年12月より帯広の『一般社団法人ばんえい十勝 ばんえい競馬競走馬診療所』へ着任。

なぜ「ばん馬」なのか? 獣医師としての原点と帯広への道

まず、獣医師を目指されたきっかけや、馬と出会った原点について教えてください。

父親が競馬好きだった影響もあり、昔から馬が好きでした。大学は大阪府立大学(現・大阪公立大学)の獣医学科へ進学し、馬術部に所属しました。当時は「講義に出るよりも厩舎で1日を過ごす方が多い」と言えるほど、まさに馬漬けの学生生活を送っていましたね。幸運にも全日本学生馬術大会にも出場することができ、その経験は、その後の人生においても大きな自信になりました。

画像:ばんえい十勝

卒業後は製薬会社へ就職し、医療系企業において新薬開発などに携わりながら最終的には役員まで務めさせていただいたのですが、会社員時代も馬術部のOBコーチとして馬の健康管理や防疫作業を行っていたこともあり、馬とのかかわりを常に意識していました。

一般企業の役員を退任された後、60歳を迎えて数ある選択肢の中から「ばんえい競馬の診療所」を選ばれたのはなぜですか?

やはり馬への思いが強く、「いつかは馬の競走馬診療を」という気持ちがずっと心にあったからです。

画像:ばんえい十勝

北海道を中心に馬関係の職場を探していたところ、帯広の『ばんえい競馬競走馬診療所』で募集があることを知りました。馬が好きだということが一番ですが、ばんえい競馬は力とスピードの双方を必要とする世界唯一の珍しい競馬です。さらに帯広・十勝の歴史を調べた際、この地域の発展を馬文化が支えてきたことを知り、自分もその馬文化を支え維持していきたいと考え、単身で帯広に行く事を決意しました。

俳優業などの芸能活動も。「やりたいと思った時が一番若い」という挑戦マインド

一般企業の役員だけでなく、俳優業などの芸能活動、そして今回の獣医師への転身と、常に新しいことに挑戦される原動力はどこにあるのでしょうか?

昔から「やりたいと思った時が一番若い」というのが私のモットーなんです。年齢や肩書にとらわれず、興味を持ったことにはまず挑戦してみる。俳優業の現場でもトップクラスの表現者の方々とご一緒させていただき、多くの刺激と学びを得ました。

そういった“常に新しい世界へ挑戦する姿勢”があったからこそ、60歳というタイミングでも迷わずに“ばんえい競馬の獣医師”という新たな世界へ飛び込むことができたのだと感じています。

想像を超える1トンの日常。直面した現場のリアル

実際に診療所での勤務が始まって、サラブレッドとの違いや現場のスケール感で驚いたことはありますか?

画像:ばんえい十勝

まず、馬の大きさが全く違います。サラブレッドが400〜500kgほどであるのに対し、ばん馬は1トンから1.2トンもあります。アスリートとして見たときも“ランナー”と“力士”ほどの違いがあり、筋肉の使い方や発生する疾患も異なるため、同じ馬でも全く別の生き物のように感じました。ただ、体が大きい分、性格は穏やかで温厚な馬が多く、その温かさも魅力的ですね。

診療所での日常のスケジュールや、現場での緊張感について教えてください。

この診療所は24時間365日体制で診療を行っています。日中は診察やケガ・病気の治療だけでなく、疲労回復・馬体洗浄等、日々のメンテナンスに馬たちがやってきます。レース開催時には装鞍所で馬の個体確認や歩様確認を行うなど、競走馬が安全にレースへ臨めるよう支えています。 

画像:ばんえい十勝

また、夜間当番の日は、診療所から10分以内に到着できる場所に待機し、常に緊急呼び出しに備えています。疝痛(腹痛)などの重症例では二次診療への搬送や手術が必要になる場面もあり、命に関わる迅速な判断が求められるため、最初は強いプレッシャーがありました。 

競走馬診療ならではの「特別な配慮」が必要な点はありますか?

画像:ばんえい十勝

一番は“レースに出走させること”を前提に処置を選択しなければならない点です。使用する薬剤が競馬の規制薬物に該当しないか、出走制限期間がレース出走日に影響しないかを厳密に確認し、調教師の先生と相談しながら投与する薬を決定しています。“馬が生活ができていて、歩様も悪くない”というだけではなく、“重量を載せたそりを曳いた馬が能力を最大限発揮できる状態”を求められるのがばんえい競馬の獣医師だと考えています。 

命と信頼を繋ぐ。競馬を支える関係者と育むパートナーシップ

これまでの勤務の中で、「この仕事を選んでよかった」とやりがいを感じる瞬間はどんな時ですか?

夜間に腹痛(疝痛)などの急患で運ばれてきた馬に処置を行い、無事に回復して厩舎へ戻ってくれた時ですね。

画像:ばんえい十勝

その後、装鞍所でレースの支援に入った際に、厩務員さんから「おかげでレースに出られました」と感謝の言葉をいただけるのは本当に嬉しいです。さらに、「レースに間に合うかなあ」と思いながら治療していた馬が間に合って、レースで見事に勝利を収めてくれた時は、我々にとっても大きな喜びになります。 

調教師や厩務員さんなど、現場の関係者と信頼関係を築くために心がけていることはありますか?

画像:ばんえい十勝

日常的な挨拶や世間話も含めて、積極的にコミュニケーションを取るよう心がけています。

また、ばんえい競馬の現場ではインド人厩務員の方々も多く活躍されています。彼らともスムーズにコミュニケーションが取れるよう、私自身もヒンディー語の簡単な挨拶や会話を勉強して声をかけるようにしています。言葉をきっかけに距離が縮まり、より良い環境づくりに繋がればと思っています。

「すべてのばん馬が能力を発揮できる環境を」目指す将来像と新たな役割

今後、どのような獣医師を目指していきたいか、将来の目標を教えてください。

“全てのばん馬が競走能力を最大限に発揮できる環境を整えること”が一番の目標です。そのために、様々な症例や病気を学び、獣医師としての経験値を上げるとともに、調教師や厩務員の皆さんとの深いコミュニケーションを通じて、心から信頼される存在を目指したいですね。

また、前職での経営経験を生かし、さまざまな窓口との円滑な連携や組織運営の架け橋になれればとも考えています。

最後に、ばんえい競馬を応援してくれているファンの皆様へメッセージをお願いします

ばんえい競馬は、世界で唯一“力とスピード”を競う特別なレースです。パワー系アスリートであるばん馬たちのカッコ良さや迫力あふれるレースを楽しんでいただくとともに、この十勝の地で発展を支えてきた歴史ある“馬文化”にも思いを馳せていただければ嬉しく思います。

北海道Likers編集部

一般企業の役員から60歳で獣医師へ転身され、さらには俳優業まで多岐にわたる挑戦を続ける鳩野さん。「やりたいと思った時が一番若い」と語り、何事も情熱をもって楽しむ姿勢に大きなパワーをいただきました。のばん馬たちの命を守り、十勝の馬文化を未来へ紡ぐ鳩野さんの新たな歩みを、心から応援しています!

取材・文/北海道Likers編集部 写真提供/ばんえい十勝

連載「ばんえい競馬ではたらく人」では、ばんえい競馬を支える仕事に就くさまざまな人の魅力に迫ります。お仕事と記事の一覧はこちらから。

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